「国語調査」がテーマの〈読めますか?〉で、「怒り心頭に発する」が正解率33%。今は「怒り心頭だ」「怒り心頭のだれそれ」などと単独で使われることがほとんどではないでしょうか。「怒り心頭」単独で載せる辞書が現れることも考えられます…
〈読めますか?〉結果

この週のテーマは「国語調査」。毎年発表され、先月もニュースになった文化庁「国語に関する世論調査」からの出題でした。といっても漢字の読みではなく、慣用句の意味などとして取り上げられた言葉から。ですから読みの正解率としては上がるだろうとは思っていましたが……興味深い結果が出ました。

正解
怒り心頭に発するいかりしんとうにはっする 33%
いかりしんとうにほっする 51%
いかりしんとうにたっする 16%
「怒り心頭に発する」33%。文化庁としては「に達する」という、本来の慣用句と違う言い方が広がっているというのが調査(2012年度)の眼目でした。が、「発する」の読みが3人に1人しか正解できないということは何を意味するのでしょう。そもそも「怒り心頭」の続きとして「達する」も「発する」もなく、「怒り心頭だ」「怒り心頭のだれそれ」などと単独で使われることがほとんどになっているのではないでしょうか。例えば以前出題した「習い性(せい)になる」から派生した「習い性(しょう)」という単独の言葉が辞書にも載るようになっています。(詳しくはこちら

それと同じように、今は見当たらないものの将来的には「怒り心頭」単独で載せる辞書が現れることも考えられます。なお「怒り心頭に達する」を載せる辞書は職場にある辞書では見当たりません。その他の言葉についても新しい用法が載っているか調べました。


正解
弥が上にいやがうえに 71%
やがうえに 22%
やがかみに 7%
「弥が上に」は例えば明鏡国語辞典で「『―も頑張らなければならない』など、『否(いや)でも応でも』の意で使うのはあやまり」としています。しかし三省堂国語辞典は〔あやまって〕と断った上ですが「いやでも」の意味を載せています。新語や新しい使い方を積極的に取り上げるこの辞書の性格が表れています。ちなみに「弥」の字は2010年に常用漢字に入りましたが、読みは「や」だけですので、当然ながら14年度の国語調査では平仮名で意味を問うています。よかれあしかれ「いや」と仮名書きされることが「嫌でも」との混同を生む一因であることは否定できないでしょう。


正解
吝かやぶさか 80%
おろそか 16%
あえか 4%
「吝か」も常用漢字ではなく調査では「やぶさかではない」の意味を聞いています。調査で多かった「仕方なくする」の意味を認めている辞書は、この調査を補説として紹介する「大辞泉」以外に見当たりません。しかし「仕方なくする」と本来の「喜んでする」の気持ちの違いを判断するのは、他人には意外に難しいと思います。「日本人も悩む日本語」(加藤重広、朝日新書)はどちらの意味でも「肯定に解釈される点では変わりがないから、大きな誤解につながることは少ない」と、この言葉の曖昧さが述べられています。校閲としては、使う人の微妙な心理に踏み込まなければならないので、誤用の判断が極めて難しい言葉といえるでしょう。

正解
琴線きんせん 92%
ことせん 7%
ごんせん 1%
「琴線に触れる」は先月発表の国語調査から。同じ調査を2007年度にもしていて、16~19歳で本来の「感動や共鳴を与えること」としているのは10ポイント減少の28.6%、「怒りを買ってしまうこと」は14ポイント増えて52.4%になっています。その他の年代はいずれも本来の意味でとらえた人が多かったのですが、10代の急激な変化は無視できません。全体的に「分からない」が他の言葉に比べ多いことと考え合わせると、この慣用句を見聞きしない人が増えた実態があり、若い人に誤解が顕著に表れたとみるべきでしょう。しかし「やぶさかでない」の微妙さに比べると「琴線に触れる」の正しい意味ははっきりしていて、誤用の指摘がやりやすいといえます。辞書でも「怒りを買う」の新解釈を認めているものは見当たりません。


正解
姑息こそく 99%
きょうそく 1%
といき 1%
「姑息」は三省堂国語辞典で「〔あやまって〕卑劣なこと」と載せています。この辞書らしいのですが、それより厳しいと思われる明鏡国語辞典が「『姑』は、しばらく、かりそめの意。『姑息』を卑怯の意に使うのは、本来は誤り」と「本来は」という留保をつけていることに、単に誤りと決めつけていいかというためらいが感じられます。大辞林では「現代では誤って『卑怯である』という意味に使われることが多い」、新明解国語辞典は「俗に、『やり方が卑劣だ』の意にも用いられる」としています。日本国語大辞典はさらに興味深い「語誌」を載せています。一部略しつつ引用しましょう。
「礼記」では、孔子の弟子、曽子が述べた言葉の中に使われており、「君子」が「徳」をもって人を愛するのに対し、「細人」は「姑息」をもって人を愛するとしている。以後、「姑息」は「君子」の「徳」に反する一時しのぎで、「小人之道」であるとされた。日本でも、近世に、「礼記」を受けて、儒教的な見地から否定的な語として用いられたが、一般に広く「一時のがれ」の意で用いられるようになるのは近世末からである。
つまり、「姑息」は本来、儒教的な「徳」がないという意味で用いられたのですが、次第に徳とは関係ない単なる「一時の間に合わせ」のニュアンスが強くなったということですね。とすると、現代で「ひきょう」という意味が拡大しているのは、道徳的にマイナスの意味合いが復活しているといえそうです。

いずれにせよ、「姑息」は扱いに苦しむ語の一つです。本人はよかれと思って「一時しのぎ」の策を取ることが、一方では「ひきょう」と受け取られることもあり、「姑息」がどちらのニュアンスなのか明確に分けることが難しいのです。先にも引用した「日本人も悩む日本語」では「『卑怯な』という新しい意味ならだめで、もとの『一時しのぎの』という意味なら問題ないということにはならないだろう」「誤用と言われる可能性があるくらいなら、『敢えて使うほどでもない』」と「姑息」の使用抑制を控えめに主張しています。「姑息」の今回の正解率からみても広く使われていることは間違いないので、言葉自体の廃絶は不可能でしょう。しかし私たち校閲としてはせめて、「卑劣で姑息」というようにほぼ「ひきょう」と同義と思われる使い方があると、書き手に注意を促すしかありません。
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