新聞記事の特徴は、できるだけ客観的に書くよう努めていることです。そのエッセンスはあくまでも「事実」ですから、そこから離れては記事は成り立たちません。

しかし、ただ事実を平板に並べても、新聞記事になりません。事件や事象のどんなところがニュースなのか。時には、そもそもなぜこの出来事が記事になっているのかを、読者に理解してもらうことが必要です。

by Otherde

さてどんな記事にするか。そこが記者、そして編集者の腕の見せ所であり、また悩みの種でもあります。

そのとき、気をつけていることがいくつかあります。避けたいひとつが「過剰な表現」です。少し極端ですが、筆者も関わった例をひとつ。

「閑静な住宅街に衝撃が走った」

ある事件で、発生現場となった地域の様子を伝える記事の書き出しです。この後、住民の談話が複数書き込まれ、ご想像の通り、いずれも「まさか、こんなところで」という趣旨の内容でした。読んでいけば、通常考えられないことが起きた住民の驚きは十二分に伝わるのです。この書き出しは「蛇足」でした。もう少しブレーキを踏めばよかったと後悔しています。

「過剰」と合わせて注意したいのが、「客観的でない表現」です。さまつなようですが、例を挙げましょう。

「○○オリンピックで銀メダルに輝いた○○選手」

この「○○に輝く」という表現は、7、8年前から散見するようになりました。当時、運動部デスクだった筆者は、そのほとんどを「獲得した」あるいは「達成した」などに書き換えました。

同様の例を、もうひとつ。

「○○選手は『来シーズンは○○したい』と前を見据えた」。こちらは「……と抱負を語った」あるいは「……と目標を掲げた」などに書き換えています。

「輝く」も、「見据える」も、やや記者の主観的な表現です。それらすべてを否定するものではありませんが、程度(頻度)問題だと思います。

これらは、「衝撃が走った」も含め、程度の差はあれ、ここ一番で用いると実に効果を発揮する表現です。頻出すると、逆に記事の内容が希薄に感じられてしまうのではと恐れるのです。

客観を離れた「過剰」は、その先で「過激」につながり、やがて記事自体が信用されなくなる。想像したくない未来像です。

決めゼリフってのは、誰しもここ一番でいうからカッコいいんですよ、きっと。
【高橋努】

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