こういう場面で、こんな語を使うのだろうか、ということがある。「爆発現場から死傷者を搬出した」。物品ではなく人間を「搬出」する。最近、たまに見るようになった。ただし、対義語の「搬入」を人間に使った例に出合ったことはない。手元にある岩波国語辞典(第7版・2009年)は「(展示物・家財道具・製品などを)運び出すこと」と記す。このカッコを含めた語釈から推して、人間は搬出の対象にはならないだろう。三省堂国語辞典(第7版・14年)を見ると「(倉庫や会場から)はこびだすこと」とある。やはりカッコ内の補足から、これも物を主たる対象としていると考えられるが、「急病人を会場から運び出すこともあるじゃないか」と強弁されるとも限らない。集英社国語辞典(第3版・12年)は、たんに「運び出すこと」と示す。用例には「展示品の搬出」を挙げる。一般的な使い方の目安であるが、物以外に使わないとは断じられない。

新聞の校閲記者は、ふに落ちない表現や語があると、できるだけ複数の辞典に当たる。適否の確証を得るためでもあるが、出稿元に別の表現・語に変えてもらうには、相手を説得しなければならない。その時、相手がこちらの要求にやすやすと応じてくれるような記述や解説を施した辞典を選ぶ。ずるいと思われるかもしれないが、急ぎのニュース原稿などでは即断してもらわなければならない。「死傷者を搬出」の例でいえば、三つの辞典のうち岩波国語辞典を示して、納得してもらうことになるだろう。もちろん、他の辞典を引いて、そちらのほうがよければ、それを選ぶことになる。

その時々に幾つかの辞典に当たるのは基本だが、ふだん使いの国語辞典を手元に置いてすぐに引けるようにしておきたい。他の辞典との比較の基準にもなる。また同じ辞典を幾版か続けて持ってみるのもよい。ある語に意味・使い方で変化の生じたのを見るのは興味深い。たとえば「輩出(人材が、続いて多く出ること。また、出すこと)」では、岩波国語辞典は第6版(2000年)まで、その動詞形を「人材が輩出する」と自動詞の用法に限っていた。それが09年第7版で「人材を輩出する」と他動詞用法も認めた。ちなみに三省堂国語辞典は92年第4版ですでに認めている。集英社国語辞典は現在(3版)も自動詞用法のみである。(校閲記者には、その漢語が動詞形を作るかどうか、また自動詞・他動詞の一方か、あるいは両方かなど、国語辞典がどう扱っているかは大きな関心事だ)

話はもどって、「搬出」。じつは岩波国語辞典も第5版(94年)には「はこびだすこと」とあるだけだった。また三省堂国語辞典も第4版は「はこびだす」のみ。両辞典とも対義語「搬入」の項に字数を費やしていた。たしかに新聞記事でも展覧会などの話題では、作品等を「運び入れる」「持ち込む」意の搬入のほうがよく使われる。「搬出」の記述が詳しくなったのは、岩波国語辞典が00年の第6版、三省堂国語辞典は第5版(01年)からだ。同時期であるのは偶然だろうか。90年以降、新聞も含め世間一般に「搬出」の使い方に、辞典の想定しなかった用法、つまりは物以外の対象にも及んできたために、注意を喚起する必要が生じたのではと推量してみるのだが、どうだろう。
【軽部能彦】
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