昨年から「豚流行性下痢(PED)」という家畜の伝染病が流行し被害が拡大しているというニュースが、ここのところ大きく報じられています。ある日、これに関する記事で、豚について「死亡」という書き方をしてきました。

毎日新聞用語集では「(犬が)死亡した→『死亡』は主に人に使う。人以外の動物は『死ぬ・死んだ』」としていて、動物の場合、原則「死亡」とはしません。用語集通り、「死ぬ」「死んだこと」などとして紙面化しましたが、この記事に限らず、最近は動物についても「死亡」と書いてくる記者が増えているように思います。

大概の辞書の「死亡」の項では「人が死ぬこと」のように、ほぼ「人が」という条件をつけて記述しています。ですから毎日用語集の規定は妥当なはずですが、動物の「死亡」について違和感が薄れてきているように思えるのはなぜでしょうか。

一つは官庁の発表で使われている現実があります。特に統計的な語彙(ごい)として定義を明確に付与されている場合、言い換えにくい場面が出てきます。先ほどのPEDについての農林水産省のホームページでも、統計表の中で「死亡頭数」という言葉が使われています。これぐらいですと「死んだ頭数」としても支障がないことが多いですが、牛海綿状脳症(BSE)の記事などに登場する「死亡牛緊急検査処理円滑化推進事業」のように、ほぼ固有名詞のようになってくると、いじりづらくなります。ある種「お役所言葉」なわけですが、官庁に限らず学界などでも同じことがあると思います。定義をはっきりさせようとする語彙には和語がなじまず、漢語を探してしまうというのは日本語の性質なのかもしれません。

もう一つはペットなどの拡大・浸透による動物との距離の変化です。これは、時々「おかしいのでは?」とご指摘を受ける「ペットに餌をあげる」という言い方の背景とも通底しているのでしょう。「ペットも人と同じ」という動物への思い入れのある方が増えてきていて、むしろ「死ぬ・死んだ」ですと、ぞんざいな言い方に聞こえてしまうのかもしれません。

文化審議会が2007年2月に答申した「敬語の指針」に以下のようなくだりがあります。
「植木に水をやる」を適切な言葉として選ぶ人は,「あげる」に謙譲語的な旧来の意味を認め,「植木」はその種の言葉を用いるべき対象物ではないと考えている可能性がある。一方、「あげる」を使うと答える人は、この語の謙譲語的な意味が既に薄れていると考え,同時に「やる」という語に卑俗さ・ぞんざいさを感じてこれを避けている可能性がある。現代は、この二つの考え方が言わば拮抗(きっこう)している時代であろう。「植木に水をあげる」という場合の「あげる」は、旧来の規範からすれば誤用とされるものであるが、この語の謙譲語から美化語に向かう意味的な変化は既に進行し、定着しつつあると言ってよい。
「死ぬ・死んだ」という言い方に「やる」と同じ卑俗さ・ぞんざいさを感じている方がおられるのではないか、と、私は想像しています。

今しばらくは動物について「死亡」とはしませんが、将来、解禁される日がこないとも限らないのでは、と思いながら、今日も記事をチェックしています。
【松居秀記】

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