日本の12月の風物詩といえば「第九」と「忠臣蔵」――。「第九」は日本全国で無数の演奏会があります。「忠臣蔵」の上演・口演はそれより少ないでしょうが、山場の「討ち入り」が師走の出来事です。「時は元禄15年、極月(12月)の14日、所は江戸・本所松坂町」――講談の吉良邸討ち入りの一節です(写真は吉良邸跡の上野介像)。

さて、この「元禄15年12月14日」を新聞記事に記す場合、それが西暦では何年かを併記することになります。ところが明治初めまでの旧暦は、日付が西暦よりも1カ月程度遅いので、少々ややこしくなります。

旧暦が公式に使われていたのは明治5年12月2日までで、この日が西暦では1872年12月31日。その翌日1873年1月1日が日本でも明治6年の元日となりました。つまり明治5年12月は2日間しかなかったのです。ちなみに、現存する日本の日刊紙で最も伝統のある毎日新聞が生まれたのは旧暦最後の明治5年です。毎日新聞の前身「東京日日新聞」の創刊号には、日付として旧暦「明治5年2月21日」と共に西暦「1872年3月29日」が記されていますが、現在でも「2月21日」が創刊記念の日付とされています。

話を忠臣蔵に戻すと、元禄15年(うるう月があり計384日)は、元日が西暦1702年1月28日、討ち入り当日の12月14日が西暦では年が改まって1703年1月30日です。討ち入りについて原稿に単に「元禄15年」とあれば、暦のずれは無視して「1702(元禄15)年」と直すのですが、日付があると西暦年をどうするか若干悩みます。

過去の毎日新聞紙上ではどう表記しているか、最近10年間の紙面を調べてみました。

①「元禄15年12月14日(1703年1月30日)」
②「1702(元禄15)年の旧暦12月14日」
③「元禄15年12月14日(1703年)」

一番丁寧なのは、①ですね。ただし、長くなり過ぎるし、他の旧暦日付が西暦では何日かいちいち調べるのもたいへんです。②は、日付はあくまでも旧暦なんですよと断っているわけで、これも一つの方法ですが、新聞記事としては一般的ではありません。③は、その日は西暦ではもう1703年になっていたのですよと言いたいのでしょうが、少し中途半端です。

④「元禄15(1702)年12月14日」
⑤「1702(元禄15)年12月14日」
⑥「1703(元禄15)年12月14日」

新聞記事のスタイルとしては④や⑤が一般的です。最も多いのが⑤、次は④でした。④は、カッコ内の西暦年号を外して読めば「元禄15年12月14日」と読めるので、すっきりしていると思います。しかし、毎日新聞の表記では、西暦の次に元号をカッコにいれて併記するのが原則なので、それに従うと⑤になるわけです。

元禄15年はほとんど1702年と重なっているわけですから、⑥は適切ではないでしょう。⑤はカッコを外して読むと「1702年12月14日」と討ち入りより1カ月半前の日付になってしまうので、私は少々抵抗があります。しかし、高校の日本史教科書でも⑤のような表記が採用されています。

なお、幕末・明治を舞台とした「横井小楠」「明治の海舟とアジア」など私の愛読書の著者である歴史家の松浦玲さんは、西暦導入前については「明治5(1872)年○月○日」、導入後は「1873(明治6)年○月○日」と使い分けています。カッコを外しても年号と日付が矛盾しないようにするための配慮のようです。

そういうわけで、旧暦を使っていた明治5年以前の日付が記事に出てきた時は、西暦と和暦では日付が違うのだということを思い出していただければ幸いです。最近の例では、2013年7月25日朝刊の「坂本龍馬の血判」を初めて確認したという記事で、龍馬が署名した日「1859(安政6)年9月20日」は、安政6年(和暦)の日付であり、西暦では「1859年10月15日」となります。
【中高正博】

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